ハイエンドストリート。
この言葉が、単なる高価格なストリートウェアを指すと思っているなら、その認識を改める必要があるかもしれない。
なぜなら、その価値は国や文化によって、まったく異なる物差しで測られているからだ。
海外、特に欧米ではカルチャーへの帰属意識やアイデンティティの表明として。
一方、日本ではデザインの緻密さや希少性、モノとしての完成度に対する審美眼として。
同じ一着の服が、なぜこれほどまでに異なる価値観で語られるのか。
私はストリートファッション専門誌の編集者として10年以上、そして独立後もファッションディレクターとして、このシーンの変遷を肌で感じてきた。
20代前半に原宿でSupremeの行列に並んだあの熱狂も、Virgil AblohがLouis Vuittonの歴史を塗り替えた瞬間の衝撃も、昨日のことのように覚えている。
本稿では、ストリートファッションを「ただの服」とは捉えない私の視点から、海外と日本、それぞれの価値基準の深層を解き明かしていく。
これは、服の選び方が変わる、思考の旅だ。
ハイエンドストリートの起源と進化
ハイエンドストリートという現象は、決して突発的に生まれたものではない。
それは、異なる場所で、異なる熱量を帯びながら育まれた、必然の帰結だった。
ストリートからラグジュアリーへの越境
かつて、ストリートファッションとラグジュアリーは、水と油のように決して交わることのない世界だった。
前者は若者の反骨精神やカウンターカルチャーの象徴であり、後者は富と権威、伝統の証だった。
しかし、時代がその境界線を曖昧にしていく。
ストリートで生まれたリアルなエネルギーと創造性が、ラグジュアリーの世界に新しい息吹を吹き込むことに、人々が気づき始めたのだ。
これは単なるトレンドの融合ではない。
価値観の地殻変動であり、ファッション史における革命だった。
海外におけるハイエンドストリートの系譜:NYとパリの文脈
海外における潮流は、主に二つの都市から生まれたと言える。
- ニューヨーク(NY):全ての源流はここにある。1990年代、Supremeに代表されるスケートカルチャーやヒップホップが、ストリートに確固たるコミュニティとスタイルを築いた。 彼らにとって服は、自分たちが何者であるかを語るための言語であり、反骨精神の表明だった。
- パリ:ラグジュアリーの中心地が、この動きを看過するはずはなかった。Kim JonesがDiorで、そして何よりVirgil AblohがLouis Vuittonのメンズ アーティスティック・ディレクターに就任したことは、歴史的な事件だった。 ストリート出身のデザイナーが、モードの頂点に立ったのだ。これにより、ハイエンドストリートは世界的なムーブメントとして完全に認知された。
日本での発展:裏原からメゾンとの融合へ
一方、日本では独自の進化を遂げていた。
1990年代、東京の片隅で生まれた「裏原宿」という熱狂的なムーブメントがその土壌だ。
藤原ヒロシ氏、NIGO®氏、高橋盾氏といったカリスマたちが生み出すクリエイションは、海外の模倣ではない、東京オリジナルのスタイルを確立した。
彼らが蒔いた種は、やがてsacaiやkolorといった、独創的なデザインで世界に挑むブランドへと受け継がれていく。
日本のハイエンドストリートは、欧米のカルチャーを吸収しつつも、職人気質とも言える作り込みと独自の美学によって、世界で特別な地位を築いたのだ。
「価値」の捉え方の違い:価格に潜む思想
同じブランドの同じアイテムでも、海外と日本ではその「価値」の捉え方が微妙に異なる。
そのTシャツがなぜ10万円もするのか。
その答えは、価格の背後に潜む思想の違いにある。
海外:カルチャーとアイデンティティをまとう行為
欧米、特にそのルーツであるアメリカにおいて、ハイエンドストリートウェアを身にまとうことは、単なるファッションではない。
それは、自分がどのカルチャーに属し、何を信じ、何を表現したいのかというアイデンティティの表明なのだ。
「この服を着ることで、自分はそのコミュニティの一員であると示すことができる」
これは、あるラッパーが語っていた言葉だが、まさに本質を突いている。
SupremeのボックスロゴTシャツは、それがスケートカルチャーや反骨精神の象徴であることを知っているからこそ価値を持つ。
彼らにとっては、服はストーリーを語るメディアであり、消費は「ストーリー消費」そのものなのだ。
参考:HBSハイエンド
日本:デザイン性と希少性に対する評価の高さ
対して、日本の消費者は、より「モノ」そのものに宿る価値に敏感だ。
もちろんカルチャーへの理解はある。
しかし、それ以上にデザインの独創性、素材のクオリティ、縫製の技術、そして手に入りにくいという希少性に、強い価値を見出す傾向がある。
sacaiの服がなぜ高く評価されるのか。
それは、異素材を組み合わせる複雑なパターンや、細部にまでこだわり抜かれた「日常の上に成り立つデザイン」という哲学に、多くの人が美しさを見出すからだ。
これは、古くから続く日本の「ものづくり」への敬意の現れとも言えるだろう。
海外が「コト(体験・物語)」を重視するなら、日本は「モノ(物)」そのものの完成度を愛でる文化が根強い。
同じピースでも異なる“価値”が生まれる背景
この価値観の違いを、一枚のグラフィックTシャツを例に比較してみよう。
視点 | 海外の価値基準 | 日本の価値基準 |
---|---|---|
評価の核 | グラフィックが象徴するカルチャーやメッセージ性 | デザインの秀逸さ、プリントの質、ボディの素材感 |
消費動機 | ブランドの背景にあるストーリーへの共感(ストーリー消費) | 製品としての完成度と希少性への所有欲(モノ消費) |
判断基準 | 「この服は何を語っているか?」 | 「この服はどれだけ作り込まれているか?」 |
このように、同じ一着でも、どこに価値の重きを置くかで、その意味は大きく変わってくる。
どちらが優れているという話ではない。
これは、ファッションという文化が持つ、豊かで多層的な側面を示しているに他ならない。
ブランド哲学に見る“違い”
海外と日本の価値基準の違いは、それぞれのシーンを代表するブランドの哲学にも色濃く反映されている。
ここでは、NYのSupremeと東京のsacaiを例に、その核心に迫りたい。
Supremeとsacaiに共通する「姿勢」と「表現」
一見、全く異なる両者だが、実は共通する「姿勢」がある。
それは、他者の模倣ではなく、自らの信じるスタイルを貫くという強固な意志だ。
SupremeはNYのストリートカルチャーを、sacaiは「日常の上に成り立つデザイン」という独自の美学を、決して揺るがせることはない。
また、両者ともコラボレーションを巧みに用いるが、それは単なる話題作りではない。
相手へのリスペクトを払いながら、自らの世界観に引き込み、新たな価値を創造する「表現」の一環なのだ。
デザイナーの語る“自分たちのルーツ”とは
Supremeの創業者ジェームス・ジェビアは、スケーターが集まる本物の空間を作りたいという想いからブランドをスタートさせた。
その根底には、常にスケートカルチャーという確固たるルーツがある。
彼らのプロダクトは、そのカルチャーから逸脱することはない。
一方、sacaiのデザイナー阿部千登勢氏は、コム デ ギャルソンで経験を積んだ後、日常に寄り添いながらも新しいエレガンスを提案する「ニュースタンダード」を掲げた。
特定のサブカルチャーに根差すのではなく、普遍的な「クラシック」を解体し、再構築することで新しい価値を生み出す。
彼女のルーツは、衣服そのものへの探究心にあると言えるだろう。
Supremeが「俺たちは何者か」を語るとすれば、sacaiは「服とは何か」を問い続けている。
この違いは決定的だ。
消費者とブランドの距離感:グローバルとローカルの視点から
Supremeは、世界中の都市に店舗を構えながらも、そのコミュニティは極めてローカルで閉鎖的だ。
誰もが簡単に手に入れられないからこそ、熱狂が生まれる。
ブランドと消費者の間には、意図的に作られた「距離」が存在する。
対照的に、sacaiはパリコレクションで新作を発表し、世界中のトップセレクトショップで展開されるグローバルなブランドだ。
しかし、そのものづくりの精神は、日本の職人技術に支えられた極めてローカルな視点に基づいている。
開かれているようで、そのクリエイションの核心に触れるには深い理解が必要となる。
この絶妙な距離感こそが、両ブランドをただの服ではない、特別な存在へと昇華させているのだ。
消費者の意識と審美眼の差異
ブランドの哲学が異なれば、それを受け取る消費者の意識や審美眼にも違いが生まれる。
あなたがその一着を選ぶとき、無意識に働いている価値観とは何だろうか。
ストリートをファッションとして捉えるか、カルチャーとして捉えるか
この問いが、海外と日本の消費者を分ける大きな分岐点だ。
- カルチャーとして捉える視点(海外):服は自己表現のツールであり、社会へのメッセージでもある。どのブランドを着るかは、どのコミュニティに属するかを意味する。ファッションはライフスタイルそのものだ。
- ファッションとして捉える視点(日本):服はあくまで個性を彩るための要素。トレンドをどう取り入れ、どう自分らしく着こなすかというスタイリングの視点が強い。カルチャーは、そのファッションを構成する一要素として認識される。
もちろん、これは単純な二元論ではない。
日本の消費者もカルチャーをリスペクトし、海外の消費者も純粋にファッションを楽しむ。
しかし、その根底にあるプライオリティには、確かに違いが存在するのだ。
海外の“ストーリー消費”と日本の“モノ消費”
前述の通り、消費行動にもこの意識は反映される。
海外では、ブランドが持つ歴史やデザイナーの思想、その服が生まれた背景といった「ストーリー」に共感して購入する「ストーリー消費」が主流だ。
Virgil Ablohがデザインした服を着ることは、彼が切り開いた歴史の一部をまとうことを意味した。
日本では、製品そのものの品質、デザイン、希少価値といった物理的な側面に重きを置く「モノ消費」の傾向が依然として強い。
「この素材は珍しい」「このディテールは他にはない」といった、モノとしての完成度を評価する審美眼が発達している。
これは、高品質な製品に囲まれてきた日本の環境が育んだ、特有の価値観かもしれない。
SNS時代における“語れる服”の意味
現代において、SNSは自己表現の主要な舞台となった。
この時代における「語れる服」とは何を意味するのか。
海外では、その服が持つ社会的なメッセージやカルチャー的な背景が「語るべきストーリー」となる。
一方、日本では、その服の希少性や、いかにして手に入れたかという「入手困難ストーリー」が語られることも少なくない。
どちらもSNS上での共感や注目を集める要素だが、その「語り口」は、それぞれの価値観を映す鏡となっている。
これからのハイエンドストリートとは
ラグジュアリーとストリートの境界線が溶け合い、価値観が多様化する今、ハイエンドストリートはどこへ向かうのか。
その未来を考えることは、これからのファッションとの向き合い方を考えることでもある。
境界がなくなる中で問われる“本質”
もはや「ラグジュアリー」か「ストリート」かという分類自体が、意味をなさなくなりつつある。
あらゆるものが融合し、フラットになった世界で最後に問われるのは、ブランドやデザイナーが持つ「本質」だ。
それは、揺るぎない哲学であり、独自の美学であり、時代を超えて人を惹きつける誠実なクリエイションに他ならない。
表面的なトレンドではなく、そのブランドが何を信じ、何を伝えようとしているのか。
我々消費者は、その本質を見抜く目を養う必要がある。
新世代ブランドのアプローチ:デジタルとフィジカルの交差点
Z世代が台頭する中、新しい価値観を持つブランドも次々と生まれている。
彼らは、SNSやメタバースといったデジタル空間での表現と、ポップアップストアなどのリアルな体験(フィジカル)を巧みに交差させる。
また、サステナビリティやダイバーシティといった社会的な課題にも敏感だ。
彼らにとってファッションは、自己表現であると同時に、より良い未来を作るためのプラットフォームでもある。
この動きは、ハイエンドストリートの価値観に、新たなレイヤーを加えていくだろう。
消費者に求められる「視座」と「問い」
これからの時代、我々消費者にも新たな「視座」が求められる。
それは、ブランドが発信する情報を鵜呑みにするのではなく、自らの価値観で本質を問い直す力だ。
- この価格は、本当にその価値に見合っているのか?
- 自分は、ブランドのロゴに惹かれているのか、その哲学に共感しているのか?
- この一着は、自分の人生を豊かにしてくれるだろうか?
こうした「問い」を自らに投げかけること。
それこそが、情報に流されず、自分だけのスタイルを築き上げるための第一歩となる。
これはもはやアートを選ぶ行為に近い。
まとめ
海外と日本、それぞれの視点からハイエンドストリートを紐解くことで、一枚の布の裏に隠された、複雑で豊かな“価値”の正体が浮かび上がってきた。
- 海外の価値基準は、カルチャーへの帰属意識とアイデンティティの表明であり、「ストーリー」を消費する行為に近い。
- 日本の価値基準は、デザインや品質、希少性を見抜く審美眼であり、「モノ」そのものの完成度を愛でる文化に根差している。
- ハイエンドストリートを真に理解するとは、単にブランド名や価格を知ることではない。その裏にある思想、歴史、そして文化の文脈を読み解くことだ。
結局のところ、ファッションは極めて個人的な営みだ。
しかし、その選択の背景には、あなたが育ってきた文化や社会が深く関わっている。
最後に、あなたに問いたい。
今、あなたが着ているその一着は、ただの服なのか?
それとも、あなた自身を語る、かけがえのない物語なのだろうか。
最終更新日 2025年7月24日